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コラム

当たり前ではないということ

     

緊急事態宣言が解除されて以降、少し日常に戻りつつある週末の朝。今日も4人の対話の時間が始まっています。


Waka:緊急事態宣言も解除されて少し落ち着いたので、今日はこの後久しぶりに実家の親の様子を見に帰るつもりです。これまでも親の体調が気になりつつも移動するのもどうかと思い、なかなか帰省できなかったのです。以前は当たり前のように帰省していたのですが、実は会いたい時に家族に会えるというのは、当たり前のことではなく、とてもありがたいことだったんだなあ、と実感しています。

でももうこれはもう当たり前のことではないんだ、と思ったら、心が定まったというか、そうか、そういう時代なんだと受け入れられるような気持ちにもなっています。

 

とうりょう:そうですね、まさに当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなってくる、時代の大転換期にいると感じますね。当たり前のものなど何もない、という。先ほどWakaさんが「心が定まった」と言っていましたが、この「心が定まる」ということが大切なのだろうなあと思いながら聴いていました。

 

Waka:この状況になり始めたころを思い返すと、それまで当たり前だったことが当たり前でなくなったことに対して、私は不満ばかり言っていたように思います。「温泉行けない」とか「海外旅行に行けない」とか。

 

とうりょう:そうですよね。なぜ私たちは「当たり前」と思ってしまうのでしょうか。ひとつは「過去そうだったから」という過去と今を結びつける思考、もうひとつは「みんなそうだから」という人と自分を結びつける思考、これが源流にありますね。

 

Waka:確かに。会いたい時に家族に会いに行けるというのもこれまでなら当然のことでしたが、今そうではなくなっているからこそ、会える時間の大切さがわかってきたように思います。

 

とうりょう:過去と今、他人と自分を結びつけてしまう思考をほどきなさい、と言っているのが仏様なのですよね。過去と今は別物、だからこそ今を生きなさいと言っているのです。つまり過去を引きずるなと。引きずらなくなった瞬間に当たり前が当たり前でなくなるのです。そういう意味ではこれまでできていたことができなくなったこの2,3か月は我々にとってとても大きな意味があるのです。半ば強制的に「ほどけた」わけですから。

 

カーナ:このような大きな変化が起こると、当たり前だったことが当たり前でなくなると同時に、また新しい「当たり前」が生まれてくるようにも思います。ファシリテーション塾も以前は対面で実施するのが当たり前だったのが、今では当然のようにオンラインで実施しています。海外に住んでいた時には、電車が時間通りに来ないのが当たり前、スーパーのレジが長蛇の列でも店員は同僚が来ればハグをする、郵便物は予定通りに届かない、それが当たり前でした。新しい当たり前を更新しているような感覚があります。

 

とうりょう:そうですね。また新しい過去と今を結びつけるのが脳の構造なのでしょうね。それが今回コロナで強引にほどけた感があります。先日新聞記事でみたのですが、今は「理由のある消費」になってきていると。これまでなら例えば季節ごとに新しい服を買っていたのが、コロナでその枠組みが取り払われて、「これは本当に必要なのだろうか」と考えるようになってきているのです。

禅の「無問関」の中で、弟子が僧に教えを乞うた時に、僧は「もう飯は食べたか?」と聞き、「はい、食べました。」と弟子が答え「では鉢を洗っておきなさい。」と僧が言うというやり取りで、弟子は悟りを開いた、という話があります。いろいろな考え方があるのかもしれませんが、「飯」というのは今ここにあるものですね。今ここにあるものに、ちゃんと向き合っているのか、ということを問うているように思います。その時その時の気づきを得ているのか、という問いでもあるかもしれません。そして「鉢を洗っておく」というのは、また明日の学びのためにそこにとらわれないでいるように、ということではないでしょうか。

これは私たちの当たり前に対する考え方を示しているように思えます。

 

Waka:とうりょうのお話にあった「理由が必要」というところの理由とは、「自分にとって本当に今大切なものは何か」にあたるように思います。

 

カーナ:確かにルーティンでしていたことが、本当に必要なのだろうか、と考える機会が多くなっていますね。

 

縁楽:今の話を聞いていて、自分が煙草を吸わなくなった時のことを思い出していました。以前は、食後は喫煙所に行くのが当たり前というか、ルーティンになっていたのですが、たまたま気管支炎になって吸えなくなったら、どうして今まで吸っていたのだろう、と思いました。体が「いらないでしょ。」と言っているように感じたのです。

 

とうりょう:体の声は紛れもなく自分の声ですからね。頭の中の声は、過去だったり他人だったりの声が混ざってきますが、体はそういうことがないですから。

」というのはまさに自分の本当に声に従って決めたことを指すのです。心が定まって継続していくものが「」、そしてそれが積み重なると「」、智慧となるのです。そこにはなんの「当たり前」もない、本当の自分の声に従い日々積み重ねることから生まれてくるものなのです。今回の状況の中でそういうことに気が付きやすくなっていますよね。

 

カーナ:報道やSNSなどを見ると、自分が他者に影響されたり感化されたりしてしまいそうに思う部分と、一方で他者との交流や影響で人生が彩り豊かになるということも確かにあり、そこのバランスが大切だなあと思いながら生きています。自分にとって大切なものが何かを分かったうえで、他者と交流することで、大切なものを受け取ることができる、まさに受け取り方も変わってくるように思います。

 

とうりょう:「自分がどうなのか」、という視点と、「周りがどうなのか」という空からの視点と両方必要だと思いますね。

 

Waka:二つの視点の話から以前にお聞きした蓮の花の話を思い出していました。自分の想いを大切にまっすぐ縦にのびる視点と、横に根をはり他者と交わっていく視点です。

また、カーナの話を聞いていて、やはり自分にとっての大切なものがあれば、人からの影響も自分を上書きするのではなく、自分にとって大切なものをより素晴らしいものにしていくことになるのだなあと感じました。

 

とうりょう:先ほどの禅の話でいうと、「飯を食べたか」というのは自分の感覚できちんと今を味わうということ、そして「鉢を洗っておけ」というのは、またまっさらな自分になって新たなものを受け止めよということですね。器がなければ受け取れないわけですから。本当にこの繰り返しですよね。

 

カーナ:自分の体すらも一瞬一瞬細胞が入れ替わっているし、でも自分という器は自分としてあるのですよね。

 

とうりょう:定まる心というのは実は常に動体で、明日は全く新しい明日だということなのですよね。その中で自分がどう生きたいか、生かされていることにどう感謝するか、それが大切なのだと思います。

 


 

対話を通じて、日々変化の激しい中で、自分にとって大切なもの、日々新しくなる自分、どちらも大切にしながら生きていければと改めて感じた時間となりました。

 

 

※この対話は2020年6月13日に行われたものです。

waka 記

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