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コラム

「覚」と「悟」のバランスを取りながら自分の人生を生きる

4月のある早朝。コロナウィルス禍による緊急事態宣言による外出自粛要請の中、チームひだまりのメンバーがオンラインで対話をしています。

 


 

縁楽:前回話した時からまだ1週間なのに状況がめまぐるしく変わっていると感じますね。

 

カーナ:本当ですね。私はこの状況で離れた友達と会話する機会が増えています。今までも連絡を取ろうと思えばできたのですが、この時期だからこそつながることが増えたなあと感じています。

 

Waka:そういえば私も、外食がなかなかできない中、近くのこだわり野菜のレストランがテイクアウトを始めたので取ってみたのですが、こんな時だからこそ季節の野菜がしみじみおいしくて、ありがたいなあと感じました。

 

とうりょう:みんな大きく変化しているので、今度会うときにどんな風になっているのかなあと楽しみな思いもありますね。

その一方、想定していない変化というのは痛みを伴うので、みんなみんなが被害者意識で互いに責め合うようなこともありますよね。

私も含めてチームひだまりの皆さんは比較的前向きな側面をみようとする癖がついていて、陰と陽でいうと陽の部分にフォーカスすることが多い、それはいいことでもあるのですが、言い方を変えると片面しか見ていないとも言えます。

陰をしっかり見て、「陰も陽もどちらも宝物」として生きていくのが重要だと感じますね。

「被害者の人生」という生き方になると他人を責めたり、自分を責めたり、自分は犠牲者だ、と思いながら生きていったり、ということになり勝ちです。それに対して「覚悟」を持って生きると、この環境の中で自分はどのように生かされているのか、どのような使命を持って生きるのか、自分の志はなんなのか、ということを考えて「自分の人生」を生きていくようになります。この状況下では被害者の人生を生きる人と、覚悟を持って自分の人生を生きる人がより一層くっきりと分かれてきているように感じますね。

そしてまた被害者意識を持っている人のことを別の人が批判したりもする、まさにどろどろな状態になっている状況なわけです。私たちはその「泥」からどう抜け出るのかということを考えるよりは、その陰と陽をしっかり見た上で、「泥」の中でどうしっかり生きるか、と考えたほうがよいと思います。。

 

縁楽:確かにそういう被害者的な発言をまた別の人が批判するような場面があったなあと思い返されます。

 

とうりょう:私自身はファシリテーション塾の「Yes And」で言うと、「Yes」の部分が強い、「覚悟」の「覚」と「悟」でいうと「覚」の方が強いなあという認識があります。「世界はどう変わっていくのだろう」と考えるのが「覚」で、「世界をどう変えていけるのだろう」と考えるのが「悟」なんです。「覚」と「悟」が二本足でしっかりしていないとふらふらして被害者のところに戻りそうになってしまうこともあります。

 

縁楽:確かについつい、「覚」がなくて「悟」ばかりになりがちだなあと感じますね。何かを変えることの方が目立ち勝ちですし。

 

Waka:「覚」の「しっかり受けとめる、受け入れる」というのは、「悟」の「何かを変える」のようにBeforeとAfterがはっきり見えるわけではないので、外からわかりにくい、というのはありそうですよね。周りの人もその価値に気づきにくいように思います。

 

とうりょう:しばらくはみんな被害者モードになりがちなので、どうしても見えやすい、「悟」の方にすがりたくなるでしょうね。他の人と違うことを言って目立つようなことに動かされがちです。

一方「覚」の方に寄りすぎていると柔軟性や自己肯定感という名のもとに傍観者・追随者のようになってしまいますし、やっぱりバランスが大切なんでしょうね。力強く自分の志がはっきりしていれば少々障害があっても世界を変えようと動き始められると思っています。

マーガレット・ミードという人類学者が「熱意のある市民が集まれば世界は変えられる。それ以外で世界が変わった例はない」と言っています。熱意を持った大衆として、自分が世界を変えていくとするとどう変えていくか、と自分を持つ必要があるし、また世界がどう変わっていくんだろうと考えることも必要だと感じます。

 

Waka:「覚」と「悟」をバランスよく生きていく、ということは、さきほどとうりょうがおっしゃっていた「泥の中で生きていくにあたって、陰と陽のどちらも宝物」というお話と通じるように感じます。

 

とうりょう:そうですね。泥の中で育って美しい花を咲かせるのが蓮花です。泥の中で人とつながってたくましく生きていくと共に、泥を打ち破ってまっすぐ伸び、美しい花を咲かせる、その両方が必要なのでしょうね。と同時に。蓮花って別に泥に染まっているわけではありませんね。自分の色の花を咲かせるわけです。泥に生まれて泥に支えられていると共に、泥から成長している、これはまさに「覚」と「悟」なんでしょうね。

しかも美しい花でありながら、水面にいてそれ以上伸びて「こんなにきれいなんだ」とアピールすることもない。

 

縁楽:確かに「悟」ばかりが強いと「自分はこんなに変えたぞ」とアピールしがちだと感じます。

 

カーナ:今の話をききながら、出産後の自分を思い出していました。友だちがバリバリ働いている中で自分は家にこもっていて、犠牲者のような気持ちになっていたなと。そういう状況の中で、ある人に「自分の人生は自分で決められる」と言われたことがあって、その時に「ああ、自分は決められないと思い込んでいたな。」ということに気づいたんです。それから「覚悟」の「悟」のほうについて考えるようになりました。そして「悟」の方が強くなってくると今度は現状とのギャップに悩んだりして、そんなときは「覚」の方を意識して「世界の中で自分は生きているんだ」ということを思い出すと、また前に進めたりしました。

 

とうりょう:確かに自分が今どちらに寄っているかを意識しながら、揺れながらバランスを取っていくのでしょうね。揺れているってまさに生きている、ということでもありますね。

蓮花の例ですが、根は横に広がるんですよね。それは仲間を増やそうとしているともいえるし、でもそこからまっすぐに伸びて花を咲かせている。その両方が必要なんでしょうね。

 

Waka:人とつながるのと、自立して生きていく、というバランスですね。

 

とうりょう:前回の話にもつながりますが、ガンジーやキング牧師は自分の花、つまり理想や夢を人に伝えることで周りに人が集まってきました。そしてその夢の目的は「社会」であり、その夢に周りの人々は集まってきたのです。周囲の人たちの主体性を信じて夢を語ることで、主体性を持った人たちが自分の意志で集まってきているのです。

 


 

周囲の人の主体性を信じてつながりながら、自分にとっての「覚」と「悟」のバランスを意識して自立して生きること。この変化の激しい時代に自分の人生を生きていくためのキーワードとなりそうです。

 

※この対話は2020年4月11日に行われたものです。

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