心はいつも青空
還暦を過ぎた頃から、自分が死んだ後に思いを巡らせる時間が増えました。
と言っても、深刻に考えるというよりは「今日のお昼は何を食べようか」と頭を悩ませる楽しみにむしろ近いかもしれません。
若気の至りで、死して後世に名を遺すことに憧れた20代、30代の頃とは違い、今では私がこれまでいろいろな人に教えてもらったことをいかに次世代に伝えていくか。そんな気持ちが先立ちます。
おこがましい言い方をすると自分の後継者を探したい。そんなシンプルな欲求なのかもしれません。
いきなり死後の話を持ち出したのにはわけがあります。
最近、ちょっとした臨死体験を味わったからです。
それは5月に始まった企業研修講師養成講座に集う12人のメンバーが講座開始前にFacebookライブで自己紹介をしている姿をオンライン上で見ていた時のことでした。
価値観の違う初対面の相手を尊重し、意見を重ね合う。
のみならず、ひとりひとりが自身の言葉で自分からこの場に付加価値をつけていこうとする主体性を発揮する姿に心が揺さぶられました。
彼らを心から頼もしく思うと同時に、私がいなくても大丈夫という安堵感、そして一抹の寂しさをありありと体感した瞬間でした。
生き生きと語り合う彼らを画面越しに見ながら、私の脳裏にふたつのイメージが浮かびあがりました。
ひとつは大空を旋回する鳥の群れです。
鳥の群れにはリーダーがいません。
各々が自発的に飛び、かつ調和しているのです。
いちばん先頭を行く鳥は風をまともに受けますから当然しんどい。
そのためか、先頭はくるくると交代しながら方向性はトップが決めていきます。
互いに接触しないよう、距離を保つ。
単純な約束事を守りながらコミュニケーションを取り合うわけでなく、調和している。そんなvisionです。
もうひとつのイメージは蓮池です。
蓮は泥水から生まれます。
水面にしか咲かず、根を横に生やしながら仲間を増やし同時に生まれ、実は根で実ります。
泥の中で大地をわって湧き出る力、天におもねることなく横のつながりを拠り所にする在り方、凛とした立ち姿の美しさ、慢心なく成長し続けるいのちの揺らぎ。
すべてがコミュニティの必要性のイメージとして立ち顕れたのです。
後継者はなにも人ではなく、場であってもいい。
ふたつのイメージからそんな思いが芽生えました。
異業界のリーダーや経営者、影響力のあるメンバーたちが新たな共創型リーダーシップやコミュニティシップを学び合えるコミュニティを創造したい。
私はたったひとりのパートナーを育成することに囚われるのではなく、蓮池のような場づくりを目指したいのだ、と思い至った次第です。
「コミュニティシップ」とはご存じの方も多いと思いますが、経営学者であるヘンリー・ミンツバーグ教授が提唱した、組織変革の概念です。
ミンツバーグ教授が「組織は士気の高い人たちのコミュニティ(共同体)になったとき、最もよく機能する」との理論に至った背景にはサブプライムでの失敗がありました。
行き過ぎた成果主義の結果、現場に全く関与しない独善的なカリスマ型リーダーシップに依存した競争社会ではなく、一人ひとりが自らコミュニティに参画し、個を尊重しながらお互いを結びつけ協働していこうとする意識、つまり「コミュニティシップ」を発揮することで組織をコミュニティとして再生し、活性化していく、というもの。
これは共創アカデミーの前身であるファシリ塾でも提唱していた「集合知、実践知、内発動機」の重要視にも通底するコンセプトだと常々感じていましたが、ここに来ていよいよ、競争を推進する未来にはもはや社会的な生き物である私たちが満足感や幸福感を得られる「明るい場所」はないと誰もが気づき始めています。
いのちはつながりを求めるからです。
さらに言えば、歴史を動かしてきたのはいつも大衆から生まれた、小さなグループ(コミュニティ)の創意でした。
アメリカの独立宣言は小さな茶会から始まりました。
かのフランス革命も中級階級と低層階級の小さな対立から生まれたものでした。
大衆の気持ちを巻き込んで世界を変える。
リーダーは上を見上げるのでも下を見下ろすのでもなく、360度全方向を見渡して一人一人の大衆に寄り添うこと。
より大きな価値のためにみんなが集まって力を合わせるコミュニティ。
ここに新しい時代のコミュニティの本質があると信じます。
共創アカデミーから生まれたコミュニティシップがいつしか異業種リーダーや経営者にとっての「自分の居場所」となり、自意識が行き過ぎた時、立ち戻れる中道となれたなら。
互いを尊重し、「心はいつも青空」とにこやかに笑い合える、居心地のいい場所になれたなら。
こんなにうれしいことはありません。
代表取締役 中島崇学