顔が見えない中でのコミュニケーション(その2)
・・・・前回の続き・・・・
とうりょう:見えないとざわざわして、見えるとざわざわしないということは、主導権は相手にあるということですよね。
だとすれば、見えても見えなくても、相手に意識を集中して話すというのが大切ですね。
相手が見えない時の方がつながっているのかもしれません。
私の場合は見えない時の方がつながりを確認しに行っているような気がするね。
見えないほうが視覚が使えない分、空気感に敏感になっている。
逆に視覚がある方がその意識が薄くなっていますね。
Waka:とうりょうは見えない時の方が意識を集中させているから、逆にその方がつながっていると感じるのでしょうか。
とうりょう:見える、見えないというよりかは、何に意識を寄せているか。
オンラインの時は、視覚と聴覚以外の五感は使えないですね。
そこに意識が加わると六感になります。
見えないと、視覚が使えない分、意識の発動量が増えるというか、意識が鍛えられるかもしれないですね。
逆に対面の時は五感が使えて豊かになる。
ヘレンケラーの話を思い出しました。
もし3日間目が見えて耳が聞こえたら何をしたいか、
という話の後、
「最後に言いたいのは、今日見えなくなるつもりで見てください。今日聞こえなくなるつもりで聴いてください。そういう生き方をするといいですよ。」と。
五感を使えるというのはすごく豊かなことだと思いました。
五感のすばらしさと共に、意識の存在がとても大きいですね。
カーナ:その場にいる人たちの意識の使い方が合っていればすごく気持ちがいいのだろうと思いました。
ざわざわするのは受け取り側の話というか、先ほどの目を閉じて話を聴く経営者の人に聴いてもらっている人が「聴くときには目を開けて聴くものだ」という価値観だとざわざわするのかなあと。
同じ意識場で話を聞いていると思えれば、その人が見えようが見えまいが、気にならないのだと思います。
とうりょう:例えばZoomでファシリテーションをする時は、参加者に「顔が見えている人もいない人もいますが、見えていてもいなくてもみんながその場にいる、というそんな意識で今日は参加しましょう。」と呼びかけると、いい場になるかもしれませんね。
Waka:確かに振り返ると、顔が見えていないことで「話きいてくれているかなー」とか自分で勝手にざわざわを作り出していたなあって思いますね。
五感が使えることの豊かさに全然意識が向いていなかったなあと感じます。
とうりょう:そうですね。
顔が見えていない人もいるけど見えている人がいるのが嬉しい、とか。
リアルタイムで声を聴けるのが嬉しいとか、みんなで同じことに取り組めているのが嬉しいとか、まず嬉しいことがたくさんあることに気づいて、そこに浸っていられるのがスタートかもしれませんね。
この対話の後、同じ日の午後に、まさに実践の場としてファシリテーション塾基礎コースが
初めてオンラインで開催されました。
そこにはとうりょう初め、チームひだまりのメンバーもファシリテーターチームの一員として参加しています。
PCの向こうの塾生の皆さんに意識を向け、こうして共に学びと対話の時間を過ごせる嬉しさに浸りながら、深い喜びを感じる時間となりました。
オンラインでの打ち合わせも増えてきています。その中で意識を寄せて共に時間を持つことで、深い対話が生まれてくるかもしれませんね。
waka 記