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コラム

Yes Andの根底にあるもの

     

徐々に日常生活に戻りつつ不安も感じる、ある週末の朝。今日も4人の対話の時間が始まっています。

 


 

Waka:実は先週ちょっとひっかかることがあったのです。

ファシリテーション塾でも大切にしているYes And、いつも心がけてはいるのですが、改めて難しいなと感じる場面がありました。

Yes Andとともに、さらっとNoを伝えるということも学んだと思うのですが、その両立って難しいなあと。

縁楽:おお、それはぜひ聞きたいですね。

 

Waka:今年私は徹底的にYes Andするということを自分の目標にしているのですが、その一方、分担や期限、責任が伴う仕事もあり、すべてYesというわけにもいかない場面もあります。

先週ある資料をAさんが作成し、それを私の方で更新をかける、ということになっていたのですが、Aさんからなかなか資料が来ず、「こちらで作成を引き取りましょうか?」とメッセージを送って既読になっても、なんの応答もなくて困ってしまったのです。

結局締め切りをすぎて夜になって応答があったのですが、「別件のあと、疲れて寝てしまいました。」と。

それを見て怒りが湧いてしまって。

 

締め切りを過ぎることへの責任のなさやメッセージを無視されたことへの怒りと、普段Yes Andと言いながら、どこにもYesできず、かといってさらっとその不満や怒りを伝えることもできない自分が嫌になってしまい、夜も眠れないほどでした。

でも翌日その人に「助けていただきありがとうございました。」と言ってもらった途端にすっと怒りがひいて、なんだ、自分は結局一言ありがとうと言ってほしかっただけなんだ、なのに責任感がどうこうと怒っていた自分の小ささを感じて、ますます嫌になってしまったのです。まだまだ本当の意味でのYes Andはできていないなあと改めて感じた1件でした。

 

縁楽:確かに、Yes Andのことを意識する時って、Yes できていない時だなあ、と自分の経験も振り返って思いました。あー、Yes andできなかった!と思うこと、けっこうあります。

 

カーナ:Wakaさんの話をきいて思ったのは、自分の気持ちにYesできていない時は人にもYesできないのだろうなあ、ということです。Wakaさんはその時、時間の余裕も心の余裕もなくて困っていたんですよね。その自分をYesしていないと、人にわかってほしいと思ってしまうのを、自分と重ね合わせて感じていました。人にYesできない時は、自分にYesできていない時なんだろうなあ、という気づきがありました。

 

とうりょう:皆さんの話を聞きながら、いろいろなことがよぎっていました。Yes Andというのは、、価値観が全く違う相手が一生懸命生きている、ということを認めること、そしてそれを認める度量を培うということなのです。

「度量」とは何なのかというと、それは「譲る」ということだと私は思います。

大切なことは相手に「譲る」という行為を選んで、本当に自分が喜べるか、ということなのです。

そうでなければそのYesには意味がない。

「共存共栄」という言葉には自分も入っているのです。

表面的にそうだよね、そうだよね、というのは本来のYesではなくて妥協です。

妥協して生きているのでは意味がないわけです。

 

そう意味ではさきほどのWakaさんのケースではYes andという手段はとれないわけです。

違和感を感じているわけですから。

人生のストーリーは神話であるといわれますが、神話というのはかならず「分離→冒険→帰還」という流れになっているのです。私たちの自我は小さいものです、でもその自我で生きていかなければならないのです。

だからこそ一度その自我から離れるのです。その分離には怒りも悲しみもつきまといます。そしてそのあとの「冒険」には葛藤もありますが、その冒険を経て、周りと共存共栄できる大きな自分になって帰還するのです。

それをわかって生きていくかどうかなのですよね。

Wakaさんのケースでは、違和感を感じていることにYesはできないわけです。

「あなたがすべきことをせずに責任を感じていないことに対して、私はとても残念に思っている」ことを伝え、「ありがとう」と言ってもらったことで相手を許すことができる。

「帰還」というのは許すことができる自分になることだと思うのです。

 

Waka:とうりょうのお話をきいていて、私が「Yesできなかった。」と言っていたのは妥協のYesだったのだなあと思いました。相手がそのことを大切に考えてくれていないことが残念だということを伝えないまま、「そんなこともあるよね」とわかったようなことを言おうとして言えなかったのです。

 

とうりょう:妥協のYesは結局押し殺したエネルギーがあとあとで不満や不平となって出てしまうので、たちが悪いのです。

 

カーナ:妥協のYesは実はお互いに自分が妥協したと思っているのではないかと思いました。自分が相手に譲ったと思っていて、それが積み重なっていくと、よくない形でエネルギーが出てしまうではと。

 

とうりょう:本来目指すところはI am OK , You are OKなのですが、妥協のYesはI am NO, You are OK.になってしまうのですよね。

先ほどのWakaさんのケースで言えば、怒りの感情から発言するのではなく、怒りの感情が起きている自分を内省し、自分の何が生かされていないのかに気が付き、そのことについて発言をすることが大切ですね。その発言にはすでに怒りはありませんね。その言葉を使って伝えるというのが大切なのです。

なのでいったん自分から分離することが重要です。

 

Waka:確かに全然自分を客観視できていませんでしたね・・。

 

カーナ:残念に思っている私がいる、ということを伝えられる関係っていいなと思いながらも、それを伝えることは相手を責めていることになりそうで伝えにくく感じます。例えそれがIメッセージであったとしても・・・。

 

Waka:カーナの言っていることはとてもよくわかります。私も同じように思って伝えられないことがよくあります。その上で、やはり根底で「共存共栄」ということを大切にしていく、ということなのでしょうか。

 

とうりょう:そうですね。共存共栄に向かっていく、という軸がぶれないことが重要です。すべては「愛」から始めるべきなのです。そうするとそこには覚悟ができてきます。自分を信じて、ぶれない人生の目的に向かうのです。

 

Waka:確かにすべて大きな自分としての帰還につながっているのだと思うと、ちっぽけな自分の葛藤も意味があるものだと思える気がします。

 

縁楽:本当にそうですね。今日は自分の経験にも通ずるところがあり、感じるところが多くありました。

 


 

つい最近の体験だからこそ、その時に感情も生々しく思い起こされ、だからこそ深く心に残る対話のひとときとなりました。より大きな自分での帰還を信じ、毎日を生きていきたいと思います。

 

※この対話は2020年6月22日に行われたものです。

waka 記

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