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コラム

お天道様が何とかしてくれる!?

     

ある日、ファシリテーション塾のメンバーの間で『坂の上の雲』が話題に上りました。司馬遼太郎の名著としてご存じの方も多いでしょう。とりわけ、私はNHKスぺシャルドラマのオープニングがお気に入りです。ナレーションにも音楽にも惹かれますが、「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている……」で始まる、5分にも満たない短いオープニングには変化の時代に必要な人材育成のヒントが凝縮されていると感じるからです。

 

いい機会だと思い、私が惹かれる理由を探るべく、思いつくままにキーワードを抽出してみることにしました。たとえば、現実受容/楽天的/昂揚/少年のような/誇り/小さな沢山のコミュニティが存在する、などなど。

 

「答えのない環境の中で自己成長するリーダーシップにふさわしい、ヒントに満ちた言葉に溢れているなあ」と改めて感心しながら板書をしていると、こう尋ねる人がいました。

 

「楽観と楽天はどう違うのですか」

 

私は、こう答えました。

「ポジティブシンキングに代表される楽観主義に対して、楽天にはもっと鷹揚なニュアンスを感じませんか。最後はお天道様が何とかしてくれる、的な」

ふと口をついて出てきた自分の言葉に、我ながら「まんざらでもないな」と思いました。

 

けれど肝心の尋ね人はピンと来ない表情で「お天道様という言葉を久しぶりに聞きました」と、一言。そこで、私はこう続けました。

 

「お天道様が最後はきっとよくしてくれる。そんなふうに腹を括ることができれば、迷いがない。受け入れがたい現実を丸ごと全部受け止めたら、あとは何とかなるだろうという境地が、楽天ではないでしょうか」

 

そう答えながら、私のふと脳裏をよぎったのは道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の「法華転法華(ほっけてんほっけ)」でした。「法華転法華」は六祖大鑑慧能(だいかんえのう)の「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」という言葉が下地になっています。

 

「法華」とはものごとの真実、ありのままの姿、そしてその作用を表しますが、ありのままでいることは実は案外、難しい。道元の「法華転法華」では悟りに至るには心が先か、行動が先か、という投げかけに転じるのですが、人は本来、変化を好みません。それゆえ、転機を目の前にすると人は迷うし、右往左往するのです。

まさしく転換期にある現代のリーダーとして転機をチャンスに変えて行動するか、ただ心迷わせて右往左往するのか。迷う人と行動できる人を隔てるものは何か?そんなことをぼんやり考えていると、目の前の人が、こうつぶやいたのです。「お天道様は眩しすぎる」

 

思わず、太陽の輝きを直視できない月の姿を思い浮かべました。そして、「お天道様がきっとよくしてくれる」と発心する時点で、わが身もまた、ありのままの姿で明るく輝く太陽ではなく、そんな太陽に憧れる月であることを思い至ったのです。

 

月は本能の象徴だと言われます。満月の夜に人の本性が露わになるのはなぜでしょうか。おそらく、私たちが受容できずに封印したい、生命本能そのものだからでしょう。誰だって、本性は隠したい。このやむを得ず、という心の動きは生命(いのち)の防衛本能と言い換えてもよいでしょう。受け入れきれない本性を封印する。それは決して恥ずべきことではなく、健全な「生命(いのち)のはたらき」の拠だと私は思うのです。そんなことを考え始めたら、ぐるぐるぐると思索の輪舞が止まらなくなってしまいました。まるで六道輪廻のように。

 

せっかくなので、日ごろ、見たくないと封印していた生命の防衛本能を六道に置き換えて、私なりの解釈を試みることにしました。

 

地獄とは、何事も悪く受け止める、被害者意識

餓鬼とは、物質的成果を追い求める、成果主義、予算主義

修羅とは、常に怒っている抵抗勢力

人間(じんかん)とは、人間関係で右往左往する、人間性

天道とは、大衆に同調することで安全地帯にとどまる、安定志向

 

日の当たる場所でこうした己の影を直視するのはなかなか容易ではありませんが、ひとたび受け止めてしまえば、きっと「お天道様が何とかしてくれる」。そう思いませんか?

 

                           代表取締役 中島崇学

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