覚悟とは何か?
「もっと自分が輝ける場所がほかにあるのではないか」
人は誰しも「いまここ」ではない「どこか」を求めてしまうものです。
自分のあり方も、いま自分が置かれている環境も全て、昨日までの自分自身の選択の結果であるにもかかわらず、です。
10月の人事異動から早1ヵ月が経ちましたが、どうやら心の静まらない人が少なくないようなので、今日はファシリテーション塾や法人研修でも好評のテーマでもある「覚悟」についてお話します。
覚悟はふたつの「さとる」から成り立っています。一体、何をさとるのか考えたことはありますか?
「覚」とは自分以外の環境を覚ることであり、「悟」とは生きていく自分、生かされている自分、つまり己自身を悟ることです。
頭で理解したつもりでも両方を同時に認識するのは難しい。
99%の人は日ごろからそんな境地にいられないでしょうし、私も例外ではありません。
だからこそ、思い通りにならない環境の中で自分自身の物語を生き抜くことについて考えることは何かしら意味があるのではないか。
そう信じて、ふたつの「さとる」について、もう少し、じっくりと思索していくことにします。
自分以外の環境を「覚る」ためにはまず、心静かに自分を取り囲む状況を冷静に分析する必要があります。いわゆるモニタリング、客観視です。
たとえば、不本意な人事異動を経験し、転職するか、思いとどまるか悩んでいる人がいるとします。
「上長が面倒をみてくれない」「部長が話を聞いてくれなかった」と嘆く前に、まず、離れたい心の有様をしっかり眺める必要があります。
不都合を感じて苦しんでいるのか。自分の価値を認められずに傷ついているのか。
自分の思いが届かない苛立ちを感じているのか。そうした心の動きが生ずる場合、たいていどこかに被害者意識が潜んでいるものです。
私たちは無意識に被害者になっている。
こうした意識を私は「覚り」の対極の状態と考えています。
私たちは無意識のうちに自分の思い通りにならない状況を無理に変えようと「批判」したり、抗っても仕方がないと「諦め」たり、本心から目をそらし「逃避」したり、自分可愛さに自分を守ろうと「正当化」したり。
自分だけが我慢すればいいと「自己犠牲」に走ったり。
いっぽうの「悟り」とは自身の才能や、天分や、天才、つまり天から授かった天命に従容することにほかならず、これも先述の被害者意識とは対極の状態です。
「いまここ」を離れたがっている自分自身の真意を把握することができてはじめて、自分が何のために、どこへ向かおうとしているのか、その目的は何か、達成すべき目標は何かが見えてくるものではないでしょうか。
目的のないまま手段を正当化しているうちは被害者意識に囚われているということです。
自己正当化、他責、批判から始まる転職であれば、失敗が待っています。
たとえ転職できたとしても、何をもって自分が幸せと感ずるのか、その目的を定めることなく肩書や年収を判断軸として場所だけ変えても、ハッピーではないでしょう。
自我から離れ、世界を眺め、自分の役割を知る。その上で、幸せに向かってどの手段を選択するか、が全てです。よそへ行くか、辞めたい気持ちを棄てて、ここに留まるか。
いずれにせよ、決断とは選ばなかったいっぽうを捨てること。
だから、覚悟が試される、ともいえるかもしれません。
大いなるいのちに貢献できるとき、人は大いなる喜びを感じるといいます。
逍遥として責務に殉じたいと願う一生懸命さはいのちの営みのひとつです。
それにしても、誰もが幸せになりたいと思っているのに、なぜ私たちは果てしなく幸せを求め続けてしまうのか。
それはおそらく、自分のいのちを持続させるために、誰もが一生懸命だから、ではないでしょうか。
懸命だからこそ、「どうして自分だけが?」と腹も立つ。
それゆえ、この懸命さを私は愛おしいと感じます。
その上で、覚悟を語ることの難しさをかみしめつつ……。
被害者意識に陥らないよう、「日々精進」。
代表取締役 中島崇学