原動力としての評価
いつもとちがったゴールデンウィークの最終日。チームひだまりのメンバーがオンラインで対話をしています。
縁楽:いつものゴールデンウィークの最終日とは全然違う日だなあと感じています。
とうりょう:日々状況が目まぐるしく変わり、私自身はオンラインのワークショップも日々入魂して実施していて、もう1か月前が遥か以前のことのように思います。1日1日自分も変わっていき、人生が長く充実しているように感じ、ありがたい、と思いますね。
Waka:1日1日が変わっていく、という感じ方はきっと人それぞれあるのだろうなあ、と思います。
カーナ:私も昨日のことが何年も前のように感じることがあります。
縁楽:このコロナの世界で1日が短く感じるのは、充実しているからなのでしょうね。
とうりょうも新しくオンライン会議の作法というセミナーを開発したり日々アップデートされていて、輝いていると感じます。
Waka:日々めまぐるしく世界が変わっていきますが、それに流されるのではなく、しっかり自分の根っこを張りつつ、自分をアップデートしていけると人生が充実してくる、という感じでしょうか。
とうりょう:仏教の言葉のひとつに「諸行無常」という言葉がありますが。
これこそが日々アップデート、ということかもしれませんね。
「諸行無常」というと儚いイメージがありますが、日々アップデートしていく先に成長があり、成長の先に死がある、なので「もののあはれ」という感覚につながっているのでしょうね。
先にある死から目を背けないでしっかりと今を見て生きていくことが、人生を広げることになるのだろうなと感じました。
カーナ:家から駅への道を歩いていても、同じ道でも日々変わっていて違う風景だと感じることがあります。見えてくるもの、感じるものが日によって違って、あー、こんなものもあったんだなあと。
とうりょう:私の場合は日々違うことをやっていることで、充実しているなあと感じているわけですが、本当は同じことを繰り返していてもやはり変化していて充実感を感じることもできるのでしょうね。
それと、やらされ感がないこと。
会社員時代はやらされ感があると、感性のスイッチを切ってしまうような感覚がありました。
そうすればそれなりにつらくないし、楽しくやれる、時間もあっという間に過ぎていく、でも人生を味わっていなかったこともあったなあと今になって思います。
今は毎日の中に自分の使命を見出して、自分でやりたいこと、やりたくないことの選択肢があり、自分のやりたいことをやる、という生き方ができるようになってきました。
Waka:仕事の上で、「そうは言ってもやらなければいけないのだから」と感性のスイッチを切って黙々とこなすことは確かにありますね。
そうではなくて本当に自分でやることの意義を感じてやっているときは充実感も違いますね。
同じことをやっていても、そこに意義を見出す、見出さないというのは、ある意味自分自身のとらえ方なのでしょうか。
とうりょう:例えば会社のビジョンのように人から与えられたものであっても、そこに意義を見出し、自分でどんどんチャレンジをしていく人もいますね。
そういう意味では今こうして、本当に自分のやりたいことをやっている状況から、以前の自分を振り返ると、もっと自分の柔軟性を信じてもよかったのかもしれないと思います。
カーナ:お話を聞いていると、スイッチを切ってやっていても時間はあっという間に過ぎる、やりたいことを夢中になってやっていても時間はあっという間に過ぎる。でもそれは全然違うものなんだなあと感じます。
考えごとをしながらご飯を食べていると気が付くと食べ終わっていて、あれ?何を食べたんだっけ?と思ったりします。
一方おいしいものを「おいしいね」といいながら楽しく食べてもあっという間になくなってしまったり。そんな違いに近いのかなあと思いました(笑)
縁楽:私の場合も確かに、仕事の場合、「自分の仕事だから」という思いでやっていることもあるのですが、それ以外に自分でやりたいと思ってやっている活動、例えばファシリ塾もそうですが、やはり自分のやっていることが人の役に立てば、という思いで自らやっていますね。
とうりょう:縁楽さんの言うところはとてもリアルに感じられます。私たちは他人と比較される教育を受けてきました。優劣を競いながらも平等でないことには厳しい教育ですよね。今にして思うと、その平等さの中で優劣を競うということに対して空虚さを感じて、スイッチを切っていたのかもしれません。
福沢諭吉の言葉で「一身独立して一国独立す」というものがあります。ひとりひとりが自分の感性で、自分の哲学でものを見て、独り立ちする、そういう個性豊かな人たちが豊かな明治時代を作ってきたのだと思います。今の状況下、感性のスイッチを切って会社に行かなくてもよくなってしまったからこそ、今いちど「ひとり」ということを見つめなおしてみたいと思います。
カーナ:教育といえば、子どもが受験のために絵を描いていた時と、いま、自由な心で絵を描いているのと、全然違う感覚だと言っていました。評価されるために描いていたからつらかったのだと。
とうりょう:評価がゴールというのは魂が喜びませんよね。それがゴールでいいんだっけ?と自分もどこかで疑問を感じていたように思います。
種田山頭火という詩人がいます。彼は一人で生き、山野をめぐり、一人で死んでいったので
すが、彼の作品に「一人で蚊に食われている」という詩があります。ひとりということの豊
かさ、そして気概を感じます。
縁楽:その詩は誰かに評価してもらうために書いた詩ではなく、本当に自分が書きたくて書いた詩なのでしょうね。
とうりょう:そうですね。私も「一人で蚊に食われている」と聞くとなんだか寂しいなと思ってしまうのですが、「この詩を読んでどう思うか」と、山頭火に問われているような気がします。
カーナ:自分の表現したいことをただそのままに表現できた時は、表現した時点で、もうそこに執着はなくなるのですが、評価を気にしているときは、いつまでも他人にどう見えるだろうかと気にしているように思います。
とうりょう:評価を気にすること自体は、人間の原動力になることもありますね。
勝ち負けを生きるエネルギーにすることもあるわけです。
その評価を原動力にしながらも、ゴールにはしない、ということが重要なのかもしれません。
なぜならば評価をゴールにすると、評価地獄になり、嫉妬地獄に行き着いてしまうからです。
必ず上には上があるので。ですからゴールにせず、スタートでのエンジンに使うのがよいかもしれませんね。
Waka:今のとうりょうの言葉はとてもしっくりきます。
会社など、社会生活の中では評価を全く気にしないというのは難しいなと思うので。
私は会社の中の活動に、ファシリ塾で学んだ「Yes And」を取り入れることを実践してみています。
そこに「よくなったと評価されたい」という気持ちが全くないとかいうとそんなことはないのですが、でも自分の中で「どうしてもこれを取り入れて実践してみたい」という強い気持ちがありました。
それでやってみた時に、ある人に「本当に励まされた。」と言ってもらったのです。
その言葉をもらうためにやっていたわけではないですが、でも本当に嬉しかった。
その喜びを今思い出していました。
とうりょう:その喜びを味わうためにも「評価されたい自分」を否定しない、ということが大切なのでしょうね。
ダライ・ラマも、「自分は名誉欲も強い、それが活動の動機の一つでもあります。同時に私が知っているのは人間の本質がそこにあるのではなく、利他と慈悲にあるということです。」ということを言っています。
その両方を抱いて一歩一歩歩いていくということなのでしょうね。
どちらかを振り落としてはいけない。
元々人間は二元性のあるものなので、判断をするには評価を入れざるを得ないのです。
それを認識しながらも、その奥底の喜びを目指していくことで、日々の体験の中で「ああ、これがその喜びだ」とわかる時があるのですね。
つい「評価を気にするのはよくないことだ。」と決めつけがちですが、評価を気にする自分を否定するのではなく、ゴールにせず原動力にすればよいのだ、と気づくことで、とても気持ちが楽になりました。また一歩踏み出す勇気をもらったように思う、縁側での対話のひとときでした。
※この対話は2020年5月6日に行われたものです。
waka 記