「無自覚な反応」を自覚する練習
明治元年、明治天皇が天地人明に誓約する形で掲げられた五箇条のご誓文。その冒頭を思い出せますか?
そうです。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スべシ」という、あの一文です。
幕末から明治へ。
激動する時代においては専制君主のみならず、下々の民一人一人の志が必要だと高らかに謳いあげていました。
遡れば、聖徳太子が説いた十七条憲法の冒頭、「和をもって尊しとなす」にも同様の姿勢を感じます。
むやみに反抗し合うのではなく、互いの心が和らいで協力することが尊いのであり、それが根本的態度でなければならぬ、という「あり方」の表明だと思えるからです。
注目したいのは、どちらの「あり方」にも集団の合意形成の重要性を尊ぶ姿勢が通底していること。
いずれも、いかなる課題解決も下々の合意を得た上で生み出された「新しい意見」を受け入れ、喜んで共存共栄の道を探ろうではないかという態度の誓文だと、私は受け止めています。
いま私たちが置かれている変革の時代においても、まさしく「万機公論に決すべし」に象徴される、合意形成が求められているのではないでしょうか。
これは「集合知」の共有と言い換えてもいい。
長年、場づくりの現場に居合わせた経験から私は「集合知」には二種類あると考えています。
ひとつは公論の場で時折経験する、「誰の意見でもないのに、すごい意見出た!」と偶発的に立ち顕れる、集合知。
これは、ごくまれですが、心震え感動すら覚えます。もうひとつは私の意見とは明らかに違うけれども、皆で導き出した新たな意見に共存する覚悟が湧いてくる類の集合知です。
ここでは「私の意見とは明らかに違う」と自覚することがとても重要です。
「ファシリテーターは公論の場で自分の意見を持つべきでしょうか?」という質問をよく受けますが、「自分の意見は持ったほうがいい」と私はいつも答えています。むしろ、持つべきでしょう。
確固たる意見を持った上で、この場をどうしたいのか自覚する必要があるからです。
その上で、あなたの意見を通したいのか、それともその場でみんなの意見(集合知)を引き出した上で、その組織の最適化を導き出したいのか。自問し、自覚すべきです。
後者であれば、自分の意見とファシリテーターとしての自分の立場をいったん切り離し、自分の意見を持ちながら、他者の意見を傾聴しようという謙虚な姿勢になるはずです。
この「あり方」はファシリテーターだけでなく、新しい時代のリーダーにも必要なスキルだと私は考えています。
イエスの場合も、ノーの場合もどちらか一方に立つのではなく、完全にフラットに対応していく。答えはひとつではないけれど、答えのない中、考える力をどう養っていくか。
その場にいる誰もが、ファシリテーター(リーダー)のあり方を注視しています。
我欲で自分の望む方向に誘導していくファシリテーターやリーダーは、この時代には効果的ではありません。ただ、そのつもりがなくても、「自覚なき誘導」というのは往々にして起こり得る。だから厄介なのです。
なぜかと言えば、人は皆、自分が好きな方に無自覚に反応してしまう傾向にあるからです。
無自覚の反応(リアクション)とその反応によって引き起こされた選択(レスポンス)が重なり合うことで、無自覚の操作が発生してしまう。
人間のトラブルはたいがい、こうした無自覚の反応から起こりがちです。
そのため、共創アカデミーではファシリテーション塾のワークショップにおいて「自覚する練習」を行っています。言ってみれば、いかなる大ピンチが起きた時でも「それはちょうどいい」と反応する訓練です。
たとえば、あなたがファミレスの店長で、ある日、店のドリンクバーの飲み物が全て飲み干されてしまうという状況に遭遇したら。あなたは咄嗟にどんな反応をしますか?
「それは困ったな」「大変だ」と上長に相談するか。あるいは「飲み干されてしまうほどおいしいドリンクバー」という状況を活用して「PR活動につなげられるぞ」と好機と捉えるか。はたまた「ドリンク王として壁に貼り出したら面白いな」とアイデアが湧いてくるか。
成長と貢献から生まれたアイデアは希望をもたらしますが、被害者意識で硬直しまえば、何をも生み出すことはできません。これは決して幸せな状態ではありませんよね。反応の仕方は選択できるのに、できないと思い込んでいる無自覚にこそ、不幸の元凶が宿っているのかもしれません。
道元が「花は愛惜に散り 草は棄嫌におふるのみなり」という言葉を残していますが、
生い茂った雑草を見て、青々とした生命力を感じるか。疎ましく感じるか。
草花を眺めるときでさえ、私たちは思い込みというバイアスがかかった色眼鏡で事象を歪め、見てしまいがちです。
どんなに嫌っても、草はそのたくましい生命力で生い茂っているだけなのに…。
目の前の事象にどう反応するか。私たちは、その瞬間、瞬間に選択できる自由を持っているのにも関わらず、です。
この「選択の自由」を考えるとき、私はいつもヴィクトール・フランクルのことを思い出します。ナチスの強制収容所での体験を下に記した『夜と霧』で有名なオーストリアの精神科医です。
アウシュビッツという極限状態で多くの人が「この厳しいところからどうしたら生き延びることができるだろうか」と問いました。しかし、生存はほとんど叶いませんでした。
そんな現実と向き合う中、彼はこう問いかけたのです。
「神様は私に何を求めているのだろうか」と。
そして彼は、こんな状況下で面白いことなど何もないけれど、何か面白いことをみつけて一日一回大笑いしようと決めたのです。その後、彼が解放されたことは皆さんご存じの通りです。いかなる状況に遭遇しても、ユーモアとウイットを忘れないと覚悟し、主体的に生きることを選択できる。私はその自由を讃えたいのです。
代表取締役 中島崇学